ウオーキング、時々トレッドミル

気が付けば60歳!! 旅と写真が好き。8年前に思いついてダイエットとウオーキングで標準体重に。また体重が戻り始めたのでトレッドミルも使って健康維持頑張ります。

親の介護と言っても人によって様々

あたりまえのことですが、人が年取って介護が必要になるとき、その人との関わり、またその人の性格も大きく影響してくると思います。


日本に来て父と暮らし始めてもう3週間が過ぎました。
最悪期からV字回復をして、殆ど以前と同様なことができている父ですが、少しの変化でもそれに慣れるために随分と時間を要します。


例えば、6時に起床なんですが、この寒い中、6時に起きなければならない理由は全くありません。布団の中でぬくぬくしているほうがどれだけ気持ちいいか。
6時の目覚まし設定を6:30AMにしたら?と勧めたことがあります。
でもそれをしたら、その30分が気になって気になって、夜、30分遅く起きたら色々遅れてしまうんじゃないかと、本気で心配して、夜も眠れなくなる始末。
そして今は元通りの6時起床に戻して、お勝手を温めて、でも朝ごはんは6:30からにするんだ。と意味不明のルールを語っていました。


私が来てから介護認定が介助から介護1に変わったので、ディサービス1日コースを加えられることになり、木曜日の半日コースと土曜日の一日コースに行くことになったんですが、これも、すでに2回いきましたが、いずれも行くまえまでは、不安で不安で、色々行かない理由を探して家にいたいと言います、
そして、出かけて帰ってくると楽しかったと。
連絡帳にもなんとか、食事したり、アクティビティをしたり、それなりに楽しんでいる様子が伝わってきます。
ところが、2日か3日経つと、自分が、移動介助など全く必要ないので、(食事もトイレも入浴も)行かなくてもいいんじゃないかと始まります。


幼稚園児が幼稚園行きたくない。と言っているのとあまり変わりません。


昨日は、お惣菜の買い物に電動三輪車で行ったのですが、お財布を忘れたらしく、幸いいつもズボンのポケットには1万円以上のお金が入っているので、無事支払えたようですが、きっとパニックしたのでしょうね。帰ってきて、今度は家の鍵が見つからなくなったと思ったそうです。家の鍵は三輪車の鍵と一緒にしてあるので、ここまで戻ってきたのだから、もちろん三輪車についているはずなのを忘れて、弟の家にいた甥に合いカギで玄関を開けてもらったそうです。
その時、私は実家にいたのですが、私の部屋は2階。防災を心配する父に、鍵かけて行っていいよ。と声かけしていたのです。


点と点が繋がっていたのが、その線の部分が失われ、点と点になって、自分の行動がわからなくなる感じです。父も、いろんなことを忘れて嫌だなぁ。と言います。


私は父とずっと仲良しでした。
就職した頃も、海外旅行した時も、海外移住した時も、いつも父は私の見方で、困るといつも助けてくれました。時事についても良く話をしたものです。一緒に居酒屋に行ったり、私にとってはとても大好きな父でした。


無償の愛なんて言葉は普通母の愛と同意語になるらしいですが、私が振り返ると、無償の愛は父から受け取っていた気がします。
母も私を愛してくれてはいたと思いますが、彼女にとっては跡取り息子の弟が大切だったかなと思うことが時々あります。
そんな父は、弟家族にもこれでもかというぐらい金銭援助をしたりしてきました。
でもそれは将来世話になるという暗黙の期待があったように思います。


弟は父に対して、私と同じように考えていません、それより、母に対してのほうが愛情を持っていたのかも。


異国に住んでいる友人に、この日本滞在のことで、メッセージしましたが、どうもうまく話がかみ合いませんでした。彼女は母親の過干渉に辟易としていて、この国を出たかったと。
だから、認知の症状が出て、段々それまで生きていた人生を失いつつあることを哀しいと思う気持ちを共有することができませんでした。


改めて、どう生きるか、どうかかわるか、それは人それぞれなんだなぁ。と思った瞬間でした。
父には、最後に誰かに気を使って、お願いして生きる人生より第三者の人に助けてもらいながら、みじめに思わない形で人生を終わらせてほしいと思います。